2023年7月3日月曜日

2023/07/03(月) 座談会 #3 [思いの背景]

(…前回からのつづきです)

(ぱぱ)
 小さな一言を聞き流さないで、推察していく姿勢は、「寄り添っていく保育」そのものだと思います。「良い保育士は、良い探偵でもある」とも言えそうです。

 では、次は、うめさん、子どもの思いをくみ取るという視点で、自由に語っていただけたらと思います。

(うめ)
 「子どもの思いを受け入れる」ということを考えた時、個人的に意識していることは、「できるだけ正確に、その思いの背景を理解する」ということです。

 たとえば、ある子が、他の子をたたいたり、噛んだりしてしまった場合、その行為が相手に与える影響(痛い、かなしい等)を説明し、「人の心や身体を傷つけることは、してほしくない」旨を伝える必要が、あると思います。しかし、その子が、そのような行動をしてしまった背景を理解できていないと、同じようなことが、二度、三度と起きてしまうと思います。発育・発達段階からすると、相手の気持ちを客観的に理解できるようになるのは、早くても4~5歳くらいからだそうですから、朝日園や東領家園のような0~2歳児さんの保育園では、なおさら、言葉の説明で理解することは、むずかしいと思います。

 そこで必要になるのが、行動の背景にある思いを理解し、その気持ちによりそった対応をすることだと思います。他の子に乱暴してしまう子にも、相手の子に自分の使っていた、おもちゃを取られてしまったり、作っていたものを壊されてしまったりして、かなしかったり、くやしかったりした…という思いが、あったのかもしれません。あるいは、前日、よく眠れていなかったり、朝ご飯を十分に食べられなかったりして、体調が万全ではなかった…という事情が、あったのかもしれません。さらには、保護者やスタッフに甘えて、受け入れてほしい…という思いの裏返しだった…ということも考えられます。

 その子の日々の様子や、他の子を含めた前後の流れ、そして、家族や他のスタッフからの話等、少しでも多くの情報を得るとともに、目の前にいる子自身を、しっかり見つめることで、行動の背景にある思いに共感して、それを受け入れられるような保育者になりたいと思います。このようなスタンスは、前回の話にあった「インクルーシブな保育」にもつながると思いますし、ひいては、わたしたちの目指す「さくらそう保育」になっていくんだと思います。


(ぱぱ)
 その通りですね。「心が乾いているので、潤して欲しい」という願いから、子どもの中から湧き出る言動に対して、表面に見える事象だけで優劣をつけてしまわずに、背景や裏側を見ていくことは、とても大切だと思います。

 一方で、ある意味、とても人間臭い感情を、素直に出してくる子どもも、いますね。

 例えば、私が忙しい時に限って、「ぱぱさん、ほん、よんで…」と、私に強引に絵本を持ってくる、ある2歳児さんがいます。しかし、私が、「忙中閑あり」と腹をくくって、その絵本を手に取り、ページをめくって読みだすと、その2歳児さんは、途端に、フラフラと、どこかへ行ってしまうんです。その2歳児さんは、私に本を読んで欲しいのではなく、私を自分の意のままに動かしたかったんでしょうね。だから、その目的は、私が本を読みだした瞬間に達成されて、その結果、すぐにフラフラと、どこかへ行ってしまったんだろうと思いました。「忙しそうな私を、独り占めしたかった」ということですね。「独占欲」

 また、別の2歳児さんですが、同じ空間にいる、お友だちが、大切そうに抱えているクルマのおもちゃを見て、それを強引にひったくってしまいました。でも、ひったくったクルマで、自ら遊ぼうとはしないのです。少しも遊ぼうとせず、そのクルマを、部屋の隅っこに、そっと捨てるのです。遊びたくもないクルマを、なぜ、ひったくるのでしょうか? ひったくった結果、ひったくられた、お友だちは、おそらく泣きますよね。この2歳児さんは、それが目的だったようです。お友だちが、泣いている姿を見るのが、本人にとっては、楽しいことのようなのです。これは、「他人の不幸は、蜜の味」ということでしょうか。「お友だちの支配」あるいは「自分の序列の確認」

 良寛さんに、「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」という句がありますが、子どもたちは、保育園の中で、隠すこともせずに、実にいろいろな裏を見せてくれますね。それは、とてもドロドロしています。(もちろん、そうではない、可愛らしいところも、たくさんありますよ~。)でも、私は、「そんな子どもたちこそ、前向きにとらえていけたら」と思います。「独占、支配、序列といったことも、味わうべきなのではないか」と思います。十分に経験して、その結果、「いやな気持になるから、もうやめよう」と卒業してもらえたら、いいですし、あるいは、その感情を昇華させて、例えば、小説家になるなど、人類に有益な形になってくれれば、いいなぁと思います。「子どもが経験することに、無駄なものはない」


 すけさんは、どう思いますか?

2023年5月31日水曜日

2023/06/01(木) 座談会 #2 [保育で大切なこと]

(ぱぱ)
 「まだ、ことばのやり取りができない、0・1・2歳児のお子さんに対して、その子の思いをどうやって受容していくのか、寄り添っていくのか」について、考えていきたいと思います。
 今度は、すけさんに質問します。すけさんは、子どもの思いをくみ取りたいのに、なかなかできなくて困ったことはありませんか?

(すけ)
 やはり、言葉の聞き取りでしょうか。特に、1歳から2歳の話し始めの頃になると、一生懸命伝えようと話してくれているのに、何と言っているのか聞き取れない、そんなことがあります。

 例えば、1歳児クラスの男児に、「ぼく」と言われた時の事です。「自分(ぼく)に対して、何かして欲しいことがあるのかな?」と思い、「どうしたの?」と聞いたのですが、「ぼく!」と言うばかりだったのです。何度聞いても、「ぼく!」と言うだけで、そのうち、伝わらないことに「むーーー!」と怒ってしまいました。「『ぼく』の意味するところが、違うのかな?」とも思ったのですが、いくら考えても「ぼく」の意味は分かりません。
 そこで、ちょっと落ち着いてから、もう一度聞いてみようと、その子を抱っこしながら、部屋の中を歩き回ってみました。すると、その子が、また「ぼく!」と言って、何かを指さしたのです。その先を見ると、そこにあったのは、なんと「ブロック!!!」。そのブロックは、彼からは見えない位置に置いてあったので、抱っこするまでは、どこにあるのか分からなかったようです。ブロックと分かってから、あらためて聞いてみると、「ぼ」の発音も「ぶぉ」になっていましたし、「ぼ」と「く」の間には、小さな「っ」があったような気もしてきたのです。

 そんな言葉の聞き取りで、悩んでしまうことが、多々あります。特に、話が成り立つようになったばかりの頃だと、こちらが聞き取れないことに対してのイライラが、手に取るように分かるので、辛いところです。そこで、「この子と、こんなことを話した」など、スタッフ同士で共有や相談をして、少しでも多くの思いを受け止められるように努めています。

(ぱぱ)
 保育に携わる者として、大切な視点が語られていると感じました。それは、「『ぼく』の意味するところが、違うのかな?」と感じる心を持つことだと思います。そこには、愛がありますね。小さな一言を聞き流さないで、推察していく姿勢は、「寄り添っていく保育」そのものだと思います。「良い保育士は、良い探偵でもある」とも言えそうです。


 では、次は、うめさん、子どもの思いをくみ取るという視点で、自由に語っていただけたらと思います。

(次回につづく...)

2023年5月1日月曜日

2023/04/25(火) 座談会 #1 [インクルーシブな保育]

(ぱぱ)
「私たちがやりたい保育、目指している保育ってなあに?」ということをテーマに、語り合えたらと思います。言い出しっぺですから、ぱぱから語っていきますね。

 今、世界的に、インクルーシブな保育が望まれるようになってきているのが、いいなと思います。
 ぱぱの理解によると、インクルーシブな保育というのは、「少数派を大切にする保育」とでも言いましょうか。どのクラスにも、いると思うんですけど、いわゆるトラブルメーカー的なお子さんや、何となく仲間から外れていってしまうお子さんとかを大事にして、「急がず、ゆっくり、共に過ごす」ということですね。そして、それは、実は小数派だけではなく、なんと「多数派のためにもなる」という考え方なんです。
 でも、実際のところ、少数派に合わせようとすると、その援助は、なかなか難しいんですよ~。「私の言うこと聞いて!」の真逆で、基本的には、「あなたの言うこと聞きましょう」という援助になるので…。私なんぞ、日々、オロオロしてます。


 では、次にうめさん、ひとことお願いします。

(うめ)
 インクルーシブな保育を考えた時、そこでまず必要になるのは、すべての子どもたちを受け入れようとする「受容」の姿勢ではないでしょうか? 一人ひとり違う子どもたちに対して、肯定的に接することが、ぱぱさんの発言にあった、「あなたの言うことを聞く」という援助につながるんだと思います。
 さらに言えば、一人の子どもの中にある、さまざまな側面に対しても、受け入れていく姿勢が大切だと思います。滑り台は好きだけど、かけっこは苦手な子、歌は好きだけど、お絵描きには興味がない子等、好きなことや、きらいなことも、得意なことや、苦手なことも、誰にでもあるものだと思います。
 そのためには、まず、わたしたち保育者自身が、「○○をしなきゃダメだ」とか、「△△はしちゃいけないんだ」とかいう、固定概念から解放される、ということから、始める必要があるんでしょうね。保育者が、このように考えていると、どうしても、その枠に収まり切れない子どもたちの行動が出てきて、「言うことを聞かせる」という保育になってしまうでしょうから…。その上で、表情や行動等で、子どもたちが表現していることから、その子の思いを感じ取って、その思いにそった援助ができるように、していきたいと思います。

(ぱぱ)
「受容」していきたいですね。「言うことを聞かせる」ことは、最小限にとどめたいものです。


 今度は、すけさん、お願いします。

(すけ)
「インクルーシブな保育とは」と考えて、私の頭に浮かんだのは、「さくらそう保育園のうた」でした。歌詞の中に、「わらうことは いいね なくことも いいのだ」、「できることは いいね できないことも いいよ」とあり、それから、「すべてが ひつようさ」と続くのです。まさに、この通りなのだと思います。
 私が、最初にこの歌を聞いた時、心がほっとするような、そんな気持ちに、なったことを思い出しました。きっと、子ども達にとってのインクルーシブな保育は、ほっと出来る保育になるのでしょう。
 インクルーシブ、和訳すると、「包み込む」となるようです。園の歌の締めくくりには、「あなたに よりそう」とあります。包み込むように、寄り添った保育をしていけたらと思います。

(ぱぱ)
 インクルーシブ、和訳すると「包み込む」、ここの定義が抜けてましたね。ありがとうございます。子どもが経験することに、無駄なことはないと、私も思います。そこで、「まだ、ことばのやり取りができない、0・1・2歳児のお子さんに対して、その子の思いをどうやって受容していくのか、寄り添っていくのか」について、考えていけたらと思います。


(次回につづく)

[参考]

2023年3月24日金曜日

2023/04/01(土) 子どもよりも大人が変わる保育 (ぱぱさん)

 これは、朝日新聞2023/3/4の記事です。


 ある日、ちょうど給食が始まろうとしている時、私は、3階の保育室に用事がありました。保育室に行ってみると、4・5歳児のみんなは、給食の支度をあらかた終えて、テーブルを整えてイスに座り、あとは配膳とお当番の出番を待つ、といった感じでした。そんな中、おはな(5歳児)さんの男の子が一人、給食とは異なり、テーブルで粘土遊びに集中していました。

 男の子は、5歳児クラスとは言っても、まだまだ育ちの途中で、日によって感情の高低差があり、おそらく、この日は、気分がとてもブルーだったのではないかと思います。

 一般的に、子どもの心が不安定な時は、やわらかな感触のものを指先で感じるような環境を提供すると、不安の解消につながることが多いと、私たち保育士は知っています。そこで、大人が変わって、許される限界まで、粘土遊びが行われていたのですね。男の子は、自己実現ができて幸せです。ここで強調したいのは、周りのお友だちも、そういう枠に入りきれないお友だちを優しく肯定して、「仲間」として受け入れていることです。

 「インクルーシブな保育」という言葉が、聞かれるようになってきました。大人が変わる、すなわち、「多数派を少数派の方向に動かすことで、それが多数派のためにもなる」ということのようです。大人が変わらない、すなわち、「少数派を多数派の方向に動かす保育」とは、真逆の考え方です。「みんな一緒」から「みんな違ってみんないい」に、「早いのがいい」から「遅いのもいい」に、ということですね。詳細については、ぜひ、発達173号ミネルヴァ)を手に取ってみてください。


 私は、保育や介護といった分野では、「違いがいい、遅いのもいい」と考えられる人が多くなると、優秀な人材が育つようになると思っています。そうなると、人類の未来が、明るくなりますよね。

 「子どもよりも、大人が変わる」、そんなさくらそう保育園でありたいと思います。

2023年3月1日水曜日

2023/03/01(水) ならぬことはならぬものです…の前に (すけさん)

 「ならぬことはならぬものです」
 みなさんは、この言葉を聞いたことはありますでしょうか。

 2013年に放送された大河ドラマ、「八重の桜」で流行った言葉でもあります。物語の舞台となった会津には、6歳から9歳までの藩士の子ども達10人程度からなる「什(じゅう)」という集まりがありました。その中で作られ、守られていたのが「什の掟」という決まりで、その締めくくりの言葉が「ならぬことはならぬものです」なのです。

 これは、「してはいけないことは、してはいけないよ」という意味ですが、子ども達と関わる上で、「ならぬことはならぬものです」をどう伝えていくか、悩むことが多いと思います。什の掟の対象は、6歳から9歳までという、理屈での話が通じ始める年齢です。これに対して、私のように0歳から2歳までを対象とする保育者が関わる子どもたちは、まだまだ「理屈なんて知ったこっちゃない、私の思いはこうだぁー!!」という発達の段階にあります。

 だからといって、「何もしなくていい」というわけにはいかないのが、何とも難しいところです。「理屈なんて知らん顔」という相手に対しては、「どうやって伝えるんだ!」、「どうやって守らせるんだ!」と四苦八苦するのが関の山、次々に現れる困りごとや危険なことを目の前にすると、悩みは尽きないことでしょう。

 では、どうするか?
 0歳から2歳くらいまでのお子さまが、ならぬことをした時は、伝わる、伝わらないにかかわらず、提案という形で伝えるのがいいのかなあと思います。保育者は、「そうしたかったんだね」とその子の思いに共感しつつ、「でもね」と「相手のお友だちにも、お友だちなりの思いがある」ということを伝えるように心がけるのです。
 それを幾度となく繰り返すことで、だんだんと「そうしたら、困っちゃうんだよね」と考えられるようになっていくのですね。そんな機会を、たくさん持てたらいいなと思います。
 例えるなら、「芽が出る未来を心待ちにしながら、今は何も出ていない畑の手入れを心を込めてする。」それが、私たち大人にできることなのかなあと思います。
 繰り返しになりますが、伝わらなくてもいいのです。守れなくてもいいのです。この時期は、「今、できるようにする」のではなく、「この先、守れるようになる」ための基礎を築いていく時なのです。

 ただし、身体的に相手を傷つけることや自分自身を傷つけること、そして、大人が守り切れないほど危険なことに対しては、思いを共感するのではなく、「それはやめてください」となります。

 什の掟を載せます。今の時代にはそぐわない掟もあるように思いますが、大事なこともあるように思います。

什の掟

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです

2023年2月1日水曜日

2023/02/01(水) わがままに生きる (ぱぱさん)

 午前中、2歳児クラスの女の子が、保育園の2階に続く階段の手前で転び、こともあろうか階段の段差に小さな口をぶつけて出血してしまいました。どうやら、上着の襟に首だけ通して、袖には腕を通していない状態を楽しんでいたようです。それでは、バランスを崩したときに咄嗟に手を出せませんから、怪我になるのも当然でしょう。痛みと出血でしばらく泣いた後、疲れて眠ってしまいました。

 さあこの女の子、小一時間ほど眠って目が覚めてからは、わがまま放題でした。「抱っこしてくれないと発狂しちゃうぞ!」、「口の中に溜まるよだれを吸い取るために、湯水のようにティッシュを使わせてくれないと怒っちゃうぞ!」、「心配して集まってくるお友だちなんかいらない、少しでも近寄って来ると威嚇しちゃうぞ!」等々...。我が身に降りかかる痛みと不安を、わがままに振舞うことで、解消しようとしているようでした。

 あるいは、普段はそんな行動は許されないけれど、病気やケガの時だけは思いっきりわがままできる、そのことを実践しているようにも見えました...。想像通り、彼女は2時間たっぷり「わがまま」を楽しんだ後で機嫌を取り戻し、お友だちの世界に戻っていきました。


 さて、こちらは朝日新聞2023年1月4日朝刊の「声」からの切り抜きです。「気遣いの人生だった」、「自分の思いをはっきり言うのはワガママだと考え、相手を優先することが多かった」、「我慢して言い返さないのが常だった」、「もう少しわがままに生きてもよいのではとずっと思ってきた」、「40歳と50歳の節目に変わろうと頑張ってみたが、まだ若くて難しかった」、「そして60歳、おばあちゃんの仲間入りでもあるし、わがままも許されるのではないか」、「トラブルになっても、心のままに生きた結果なら仕方がない。頑張れ!私!」

 人は、幼い時と還暦過ぎてからは、「わがまま」に生きる特権が与えられるのではないかと思います。実は私、ぱぱさんも、今年還暦です。心のままに生きた結果なら仕方がない。頑張れ!私!

2023年1月4日水曜日

2023/01/04(水) ボーッとできる (ぱぱさん)

 以前、ぱぱさんは、「本当の生き方」というのは、生きていることの意味を自覚し、悔いのないように生きることと思っていました。己に与えられたミッションに気づき、そのために自分の人生を上手に使うことが「生き方」だと信じていました。

 けれども、近頃は、「そんなことは、あんまり問題じゃないのかなあ?」と思うようになってきました。「ただ生きているだけ、呼吸しているだけで、いいんじゃないかなあ。」実は、もうすぐ還暦を迎える私ですが、振り返ってみると、ところどころジタバタしたかもしれませんが、ただ生きているだけだったなあ、大したことはしてないなあ、というのが実感なのです。

 さて、保育園の3階の4・5歳児クラスに足を踏み入れてみます。まあ、にぎやかなこと!それぞれの遊びに没頭している、元気いっぱいの姿があります。活動的なタイプのお子さんが多いなか、一人ひとりを見てみると、活動的でないお子さまの姿も見つけることができます。もちろん、お友だちの遊びを見て、頭の中で動いているときもあるでしょうし、なにかのイメージを膨らましているときもあるでしょう。でも、ただ単にボーッとしているときもあるようです。

 提案します。ボーッとできる環境を、大切なものと位置づけたいと思います。人は、何かをしなくても愛されているし、愛されるために存在しているのです。お腹の中にいる時であろうと、子どもであろうと、大人であろうと、お年寄りであろうと、認知症を患って自分が何者であるかわからなくなっても、あるいは、意識を失ってしまっても、「その人は、愛されるために存在しているのではないか?」と感じるこの頃です。

 ボーッとできることと、平和であるということは、同じことなのではないでしょうか?