子どものいざこざを俯瞰してみますと、そのお友だちへの興味関心があり、本当は仲良く遊びたいんだけど、上手く意思の疎通ができなくて、結果として「いざこざ」になってしまうケースがほとんど全てのような気がします。一方、そもそも関心がなくて仲良しになる気もない場合は、「いざこざ」まで発展しませんね。しかしながら、クラスの仲間という大きなくくりは理解しているようで、お当番活動で一緒になったりするときは、肩をつけあってニコニコしています。
ノンフィクション作家のブレイディみかこさんは、著書「他者の靴を履く」(文芸春秋)の中で、シンパシーとエンパシーについて述べています。直訳すると、どちらも「共感」となるようですが、自分と意見が同じであるが故の「共感」をシンパシーと表し、自分の意見とは違いがあっても、それでも知力によって「共感」を目指そうとする能力のことをエンパシーと表すようです。これをニュースとして朝日新聞に載せた、宮地ゆう記者は、「自分と異なる他者を理解するには、地味な努力がいる。だが、それは自分が生きやすい社会をつくることだと気づかされる。」と結んでいるところが興味深いと思います。真の平和というのは、意見の違う人を拒絶するのではなく、理解しようとすることによってのみ、実現できるのですね。
三十番地キリスト教会牧師の富田正樹さんは、公開説教の中で、「混乱や忍耐や葛藤を抱えながら、一緒に生きてゆくというのが教会なのではないでしょうか。『そういうことでは、何でもありになってしまう。それではいけないのだ』と、ことさらに一致することを求める教会、そういう風に言う牧師も、広いキリスト教会の中には一定数います。けれども、私は一致することがキリスト教会の第一目的だとは思わないんです。一致することよりも、『一致できない者が一緒にいる』ということの方が、はるかに大事です。そもそも、人間がお互いに完全に一致できるというのは、幻想じゃないでしょうか。」と述べています。本コラム著者は、教会を会社(あるいは保育園)と読み替えたいなと思います。なかなか一致はできないのだけれど、一致できない者が一緒にいる状態をよしとすることが、実は真の平和なのかもしれません。
子どもは互いに無関心でも、お当番活動で一緒になったりするときは、肩をつけあっていられるのが素敵ですね。我々大人は、どうでしょうか。社会でちょくちょく話題になるこんな言葉、耳にしたことはありませんか?「同調圧力、自粛警察、優生思想、パワハラ、かわいがり」等々...。これらは、エンパシーが欠如し、シンパシーに引きずられてしまっている結果なのかもしれません。「大変だけど、混乱や忍耐や葛藤を抱えながら、一緒に生きてゆけたらいいなあ」
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